2009年5月23日 (土)

アシュリーの言葉

数年前から放送されているドキュメンタリーで
プロジェリアという病に向き合っていたアシュリー・ヘギさんの生活を追っていた。
その彼女が、先日の放送で「17年の生涯を閉じた」と報じられた。

プロジェリアとは、全身の老化が異常に進行する病で
発症すると通常の速さの約10倍で老化がおこるというものだ。
17歳の彼女の見た目は、とても失礼な言い方をすれば老人だった。
しかし、心は17歳。
学校に行きたい、恋もしたい、おしゃれもしたい、アルバイトもしたい。
日に日に動きづらくなる自分の体に恨みごとも言わず
精一杯に生活している彼女の姿。
「病気だからかわいそう」なんてもし一度でも思った人がいたら
大バカ者だ。
今回ばかりは、強く主張する。

私でも落ち込むことはある。
他の人から「いつも元気ですね」と言われるが
そう思ってもらうためには、
自分なりにセルフコントロールしている苦労もある。
仕事がら
『音をあげるわけにはいかない。いつも強い気持ちでいなきゃ』
思い切り突っ張っているわけだ。
(まあ、たまには愚痴ってみるのもいいかもしれない)
見た目には強い人ほど、意外にデリケートなんだな、これが。

最近もそうだった。
珍しく体と心に力が入らない。
すべて投げ出してしまったらどれだけ楽になるだろうか。
そうだ、投げ出してしまえばいいんだ。
後のことなんて知ったこっちゃない。
ああ、そうしよう。
投げやりな自分がそこにいた。

アシュリーが言った。
おそらく体はいうことをきかず、大変な状態だったのにもかかわらず

「不満を言うほど、人生は悪いものじゃないから」

ぼ~っとしながらテレビを見ていた私は
頭を思い切り殴られたような衝撃を受けた。

やられた。
そして、それこそ大バカ者の私。

でも、この場面でこの言葉が聞けて本当によかった。
アシュリーさんに助けられた。
アシュリーさん、あなたは本物の天使です。

現在の状況も不満も、投げ出さずにするとしよう。
人生は不満を言うほど悪いもんじゃない、もの。

さて、これから何度『アシュリーの言葉』を思い出すことがあるのだろう・・・。

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2009年5月17日 (日)

『スラムドック$ミリオネア』

『スラムドック$ミリオネア』を、やっと観ることができた。

走る走る。
スラム街を子供たちが走るシーンが映画の冒頭にある。
バックに映る情景、人々の様子から、
子供たちのおかれている環境や生活が想像できる。
街の一角を上から見せる。
さらに上から、そして上空から画面いっぱいに広がる屋根を見たときに
インドの現実が、手に取るようにわかった。

主人公のジャマールがミリオネアで最後の一問を残す場面から映画は始まる。
左下に何気なく流れるテロップの内容が
この映画を最後まで一気に引っ張っていくこともわからないまま。
すべては「運命」だった。

ジャマールは警察で尋問を受けている。
なぜ難しい問題を次々に答えることができたのか。
不正があったとすることを前提にした、拷問に近い取り調べだ。
警察官に応えていくジャマール。
彼が子供のころから体験した様々なエピソードがフラッシュバックされる。
「この答えは知りたくなかった」
思わず言った一言が、どれだけ過酷な体験をしてきたのかを物語る。
胸が詰まった。

物語はジャマールと彼の兄サリーム、そして少女ラティカの3人を軸に進む。
同じ境遇の中、違う道を歩んでいる3人。
まさに運命の名のもとに、出会い、別れ、そしてまた出会う。
残酷な現実と向き合いながら、私にとっては予想通りの結末へと繋がる。
やはり神はいるのだ。

最後の一問は、皮肉なことにまたもや運命的なものだった。
この問題が出るなんて、出来すぎなんじゃない?
こんな野暮な邪推はやめておこう。
思わず笑うジャマール。
「この答えは、本当に知らない」
そう、この答えだけは本当に彼にはわからなかったのだ。
彼が使ったライフラインは兄のサリームあてだった。
「この番号しか知らない」
出たのはサリームではなくラティカ。
この瞬間、彼には答えがあっていようといなくても関係がなくなった。
心からの笑顔で応えるジャマール。
「A。なぜか?なんとなくそう思ったから」
さて、答えがあっていればミリオネアに、そして間違っていれば0に
ファイナルアンサー
彼の運命は?

駅のホームに彼はいた。
とびきりの笑顔の彼が映る。
彼の視線の先に見えたものは?


素敵な映画だった。
彼の歩んできた道は、すべて運命だったのだろう。
すべてのことに意味がある。
無駄なことなんてひとつもない。

実は少し疲れていた私。
でも、がぜん元気がでた。
明日から、がんばれそうだ。

PS:インド映画らしい最後の場面で笑ってしまったのは私だけでしょうか。

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2009年2月 5日 (木)

『アメリ』

子どもの頃から、空想にふけるひとり遊びの世界に住んでいるアメリは
自分からコミュニケーションをとることが苦手な22歳の女性。
そんな彼女がふとしたことで、アパートの前住人の残した箱(缶?)を見つける。
古びた箱の中には、見た目にはガラクタ(でもきっと持ち主の宝物)が入っていた。
今では”おじさん”年代になった持ち主を探し当て箱を返したことから
「人を幸せにする」不思議な悪戯を思いつく。

実家の庭にある人形に世界中を旅行させたり
亡き夫を思い続ける女性に届かなかった彼からの手紙を捏造したり
少し嫌いな八百屋の店主宅に家宅侵入し、部屋に細工をして懲らしめたり。
そして彼らの反応をみて、密かにほくそ笑むアメリ。

こんなふうに説明すると、陰湿で暗い内容に誤解されそうだが
全然違うのでご安心を。
もしかすると犯罪(?)すれすれの彼女の行動が、とってもキュートで憎めない。
それどころか、思わず「ぷぷぷ」と笑ってしまう。
観ている私は幸せな気持ちになった。

そんなアメリが恋をした。
ニノという、どこかアメリと同じ匂いがするような青年だ。
ニノが忘れていった「アルバム」を拾ったアメリが、それを返す計画を立てる。
一般的にはアルバムを返すことからふたりは出会い、めでたしめでたし
となるはずだが、彼女の性格からいったら簡単にことは進まない。
アルバムを返すだけの行為も、あの手この手で悪戯をしかけ
なかなかふたりは顔を合わすことはない。
顔も知らない、でも摩訶不思議な彼女の行動に惹かれ始めたニノがアメリを追う。
アメリの足跡をいくら追いかけても、彼女はスルリとかわす。
そんなやりとりが、またまたキュートなのだ。

彼女は踏み出す勇気がなかった。
ほんの少し動けば自分のものになるものを手を伸ばしてとることができない。
「人の幸せ」を見て幸せな気分に浸るのは好きだが、
「自分の幸せ」を現実視することが恐かったのだろうか。

アメリと同じアパートに贋作画家の老人が住んでいる。
彼はいつもアメリのことを温かく見守っていた。
彼女も彼には、少しずつ心を開いていく。
彼女がニノとの関係に一歩踏み出せずにいたとき、
「思いきってぶつかっても自分が砕けてしまうことはない」
優しくそして強く背中を押す彼の言葉には心がキュンとなった。
そしてアメリにやっとたどり着いたニノを彼女は優しく迎い入れる。

内容もそうだが、部屋の小物やファッション、全体がとても素敵。
部屋の置物やぬいぐるみの使い方も、映画のエッセンスになっている。
また、「クレーム・ブリュレ」ブームの火付け役となったのもこの作品だ。
アメリの気分になって、クレーム・ブリュレをスプーンで突付いてみた人は多いはず。

心に残る場面はたくさんあるが、私は最後のラブシーンが特に好きだ。
最近はラブシーンもハードなものが多いが、この映画はちょっと違う。
なのに私の中ではそれらよりも、遥かにセクシーで切なくなる。
ニノがアメリに向かって首を少しかしげて愛しそうに「ふっ」と笑ったとき
それまではどことなく頼りなさそうに映っていたニノが一気にセクシーに見えて
背中がぞくっとした。

余談だが、当初
アメリ役には違う女優をイメージして脚本が書かれたが
直前でキャンセルされたため、オドレイ・トトゥが演じることになった
というエピソードは有名。
奇しくもこの作品は世界中で注目された。
アメリと同じようにオドレイ・トトゥも新しい扉を開くきっかけとなったのかもしれない。

『アメリ』は私にとって「観ていると幸せになる」映画のひとつだ。

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2008年12月22日 (月)

NON STYLE

今年のお笑いは『SHORT』が主流だったように思う。
その中でも人気なのが、1分程でネタを披露する「お笑いレッドカーペット」と
1分以内に笑いをとることでクリアする「イロモネア」だろう。
両方とも一瞬で笑いをとることが求められるので
出場者はもちネタを短く凝縮。それがいいのか悪いのかわからないが
(笑いには瞬時に見ている人の気持ちを引き付ける要素も必要なので)
1分という短い時間では魅力が伝わらず良い結果が残せない人と
逆に1分では長すぎると思えるほど一瞬の芸でうける人に分かれたように思う。
私は『こてこてのしゃべくり漫才』が好きなので、
お気に入りの芸人さんは前者のパターンが多かった。

そんな中、昔からのスタイルにこだわって放送している
『爆笑オンエアバトル』が好きだ。
この番組では、10組の出場者を観客が面白かったときのみボールを投票し
その点数の上位5組しか実際にはオンエアされないという
芸人にとってはシビアなシステムだ。
今年で10年目を迎えるが、歴代チャンピオンは現在も活躍している芸人さんばかり。
アンタッチャブル、アンジャッシュなどなど。
タカアンドトシにいたっては7・8代目チャンピオンをとり3連覇を狙っていた。
しかしそれを阻止し9代目チャンピオンになったのが
昨日M-1チャンピオンに輝いた『NON  STYLE』だ。

彼らの最強の武器は何といってもテンポの良い喋り。
どんなに早口になっても、内容のすべてが聞き取れる。
ただ大声でがなって捲くし立てているだけのコンビとはわけが違う。
そして彼らには路上パフォーマンスで鍛えた度胸と経験が備わっている。
変に気負ったりせわしなくならないところがいい。
レッドカーペット出場時には無理やりネタを短くしインパクト狙いが強く
「もっと長く見たい」という不完全燃焼だった感があったが
M-1決勝では、彼らの実力がいかんなく発揮された。
喋り始めた途端にキラリと光るものが見えた。
鳥肌が立った。

1分ではうけるが長い時間になると実力が露見してしまったコンビ
勢いと人気だけで上がってきてしまったコンビ
では、M-1の決勝には登ってこれない。
付け焼刃ではない、突発的な展開も笑いに変えられるような経験がモノをいう。
「もっと長く見たい」と観客に思わせる魅力が
歴代チャンピオンに共通している要素ではないのだろうか。

ナイツのこれでもかとボケを突っ込むスタイルも好きだ。
オードリーのずれ漫才も新しい。
個人的にはダイアンの飄々とした喋りが好きだが、なんせ1番バッターとは。
順番も明暗を分ける
まさに運も見方にしたものでないと勝ちあがれない。

今年も大いに楽しめたM-1グランプリ
毎年、ピカッと光るコンビが必ず出てくるから面白い。
『NON  STYLE』の優勝は納得だった。

早くも来年が待ち遠しい。

まぁとりあえず、次はR-1に期待しよう。

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2008年12月19日 (金)

「3」の魅力

今年は「3」という数字が大変なブームだった。
これは世界のナベアツさんの影響なのは間違いない。
雑誌のコラムには、
「算数の時間に子どもたちが3がつく数字をアホになって言うので困る」
というような、わけのわからない内容まで寄せられていたほど。
少し前までは、
「授業中に質問して答えがわからなくても『そんなの関係ない』と言って困る」
という内容だった気がするのだが。
どちらも、言っている先生の気持ちがわからない私である。

ナベアツさんは口に出して「3」を広めたが
お笑いでは「3人組」にも注目が集まった。
私の大好きな、我が家、ななめ45度、インスタントジョンソンしかり、
少し前ではロバート、ネプチューン、森三中、かなり前ではダチョウ倶楽部etc.
個性の全く違う3人に注目だ。
また、アクセサリーではトリニティダイアモンドが流行るなど
(トリニティとは三位一体の意味を表し3つのダイアモンドを連ねたデザイン)
商品デザインに3を取り入れてるものも多かった。

そもそも「3」という数字には
ものが3つあるという数量
ものを並べると3番目にくるという順番
再三(さいさん)という言葉にあるように「何度も」という意味もある。

「3」のつくことわざや慣用句そして成語は極めて多い。
『三人よれば文殊の知恵』 『早起きは三文の徳』 『仏の顔も三度まで』 
『三度目の正直』 『石の上にも三年』 『二度あることは三度ある』 『三種の神器』
『三本の矢』 『三権分立』 『三位一体』 『三日坊主』 『三つ子の魂百まで』等
たくさん思い浮かぶ。
3そのものの意味で捉えられているもののほかに
3つで一組で捉えられることが多いことも興味深い。

「3人で最小の社会が構成される」と誰かが言っていた。
ひとりでは社会にはならない。
ふたりでは選択ができない。
3人で初めて相手を選択することができる。
なのでそこで初めて社会性が芽生える・・・
そんなようなことを言っていた記憶があるのだが。

トランプの大富豪では「3のカード」が一番弱いとされている。
そして一番強いのは「2のカード」だ。
どうしてこういったルールにしたのか考えると益々面白い。   

考え出すときりがない。
頭の中に「3」がいっぱい飛び交っている。
「3」の魅力にどっぷりつかってしまった。

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2008年12月 8日 (月)

『マルタのやさしい刺繍』

とても優しい気持ちになれる映画を見た。
スイスの田舎の村を舞台にしたおばあちゃんがヒロイン『マルタのやさしい刺繍』だ。

マルタは現在80歳。
9ヶ月前に最愛の夫が亡くなり、今も立ち直れない日々を送っている。
心の中にぽっかりと穴が開いたような喪失感からだろうか
食事をするときも、友人と話をするときも、どこか上の空。
営んでいる雑貨店の商品も賞味期限切れのものばかり。
そんな彼女に、村の合唱団の旗の修理が舞い込んできたことから変化がうまれる。
久しぶりに喪服を脱いで、友人と街へ布を買いに出かけたとき
結婚前、洋裁の仕事をしていた頃の情熱が、心の片隅にポッと灯ったように見えた。
「自分でデザインしたランジェリーショップを開きたい」という夢だ。
それからの彼女の行動力といったら脱帽だ。
店を片付け、布を仕入れにひとりで街へ出かけ、店を開く準備を始める。
そんな彼女の行動に協力する友人、理解できないと説く友人。
保守的な村ではランジェリーショップは「いかがわしい店」と人々から罵倒され
みっともないと罵る牧師の息子、店を潰そうと企む友人の息子等
彼女の店は前途多難なスタートをきる。
しかし彼女のパワーに影響を受けた友人たちも徐々に変わり始める。
友人のひとりが考えたインターンネットでの紹介から注文が次第に伸び、
彼女の活躍は新聞にまで取り上げられるようになる。
祭りの場面で、堂々と自分の主張を叫ぶ彼女(たち)の姿勢が気持ちよい。
そして現在の店はというと、新しいランジェリーとお客さんで溢れている。
もちろん、生き生きと応対する彼女の姿も・・・。

ストーリーはありきたりかもしれない。
そしてハッピーエンドの展開も想像できる。
しかし、よくある映画と全く違う感覚になるのは、きっとヒロインの年齢のせいだろう。
通常は、新しいことを始めるのが若者で、それを抑えつけるのが大人の展開が多いが
この作品では、新しいことを始めようとするのが老人で、
それを抑えようとするのが、その老人の子ども世代の若者である。
普通、因習にとらわれ行動を抑制するのが年配の方たちと勝手に思いがちだが
この作品では眞逆なのだ。
保守的なガチガチ頭の村人たちの陳腐でみっともない言動に比べ
彼女(おばあちゃん)たちのチャレンジ精神は見ていて清清しくてかっこいい。
因習にとらわれずに新しいことに挑戦する姿に惚れ惚れ。
途中から心の中で「がんばれ」とエールを送り続けた。

マルタをとりまく友人たちもいい。
皆、誰もが少なからず悩みや弱みを持っている。
自分ではどうしようもないと諦めかけていたもの・こと。
彼女に感化されて、一歩を踏み出す勇気をもち実行に移す。
インターネット、車の運転、恋etc
彼女たちの表情の輝いていることといったら素晴らしい。

作品の冒頭のマルタは喪服で顔の表情もどこか淋しげだった。
しかし最後の場面では、ピンクのワンピースでニッコリ笑顔の彼女が映し出される。

夢をもつのに年齢は関係ない。
ましてや、何かに挑戦をはじめるのに年齢なんて全然関係ない。
改めて実感することができた。

年末の忙しさに追いかけられて自分を見失っているあなた。
この作品を見たら、少し気分が晴れるかもしれません。
いかがでしょうか?

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2008年10月 6日 (月)

『おくりびと』

『おくりびと』を見た。
見終わった後に、清清しい余韻に酔いしれた。

『おくりびと』は『納棺師』という職業にスポットをあてた作品だ。
 おそらくこの作品を通してこういう職業があることを初めて知った人も多いだろう。
 かくゆう私もそのひとりだ。
納棺という言葉から否応なしにイメージされる死の場面はもちろん登場するが
この作品では、死に対する恐怖や気持ち悪さはほとんど感じられない。
それどころか、粋で洒落の効いたユーモアが溢れている。

作品の前半は思わずクスっと笑ってしまうシーンが多い。
ないはずのものがついていると戸惑う場面や
納棺師の仕事紹介ビデオ撮影のモデルを引き受けた主人公の表情や仕草に
何度も”プッ”と吹き出してしまった。
死というものが何ら特別なものではなく、
ましてや格好つけるものではないごく日常のものだと受け入れられた。

「旅のお手伝い」が「旅立ちのお手伝い」の間違いだと知らずに仕事を始めた
元チェロ奏者の主人公の変化は、見ていて楽しかった。
初めの頃の彼のぎこちない動きから、美しい身のこなしに変わってい様は
まるで彼の心の変化と相まっているかのように思えた。

他にも象徴的に使われる食事風景は興味深い。
当初、見るだけで嗚咽していた食べ物も、後半ではむしゃむしゃと平らげる。
「今に慣れる」の言葉通りに。
人は生きていく為に他の生き物を殺して食べるという普段通りの行為が
何気なく残酷に思えた場面でもあった。

納棺師という職業への偏見。
それは最初に主人公が感じたことであり、そして周りが感じていることでもある。
彼の戸惑いが、自分への誇りや確信へ変化したとき
周りの人々の心へも変化をもたらすこととなる。

作品の最後のエピソードは、
それまでの全ての場面がプロローグであったように思えるものだった。
「夫は納棺師なんです」という妻の確固たる言葉
彼がみせる慈愛に満ちた所作・振る舞い
生と死が同じフレームに収まった瞬間に
胸が震えた。

全編を流れるチェロの響きが美しい。
そして所々に挟まれる短いエピソードも見逃せない。
全てにその人の人生が感じられ涙が溢れた。

「いや~映画ってほんとにいいですね」
映画評論家の言葉をそのまま使いたくなる、素晴らしい作品だった。

 追記:「死は終わりではなく次に行くための門だ」
     そして「またな」
     この二言で私は笹野さんに胸を打ちぬかれた。
     や・・・やられた。

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2008年9月18日 (木)

人気アニメキャラの『新たなる力』

今週で4歳になる姪っ子が大好きなアニメキャラクターがある。
男の子たちが憧れる戦隊シリーズのように
おそらく同じ年代の女の子は夢中だろう。
姪っ子もそれにたがわず、将来の夢はそのアニメキャラクターになることだ。
誕生日プレゼントのリクエストを訊くと、
予想通り、そのキャラクター関連商品の名前が挙がる。
関連商品は多く、それぞれの登場人物に併せた変身グッズやアクセサリー
コスチュームからパジャマ、パンツといった用品まで幅広い。
姪っ子も声を弾ませながら、あれがほしいこれがほしいと訴える。
(ちなみにキャラクターのケーキまで発売されていて注文したという:妹談)

アニメの放送は決まって日曜日の早朝だ。
私もついつい見てしまう。
結末では正義が必ず勝つので安心して見られるし
友情を軸に構成された内容かつ
何があってもへこたれない、諦めない主人公の姿勢は見習うところが多い。
どこか、時代劇の『水戸黄門』に通じるところがあるような・・。
とかなんとか偉そうに言っているが、見ていると結構面白いのが本音だ。

放送の間に関連商品のCMが入るのがお決まりだ。
なりきり変身グッズを身にまとった可愛い女の子が商品の説明をしてくれると
アニメを見ながら想像を膨らませている子どもたちにとっては、
「そりゃあ、ほしいだろうな」と、いつも思う。

先日の放送のタイトルは『新たなる力』とあった。
内容はというと、ヒロインたちが(いつも通り)窮地に追い込まれる。
今までの展開では、それでも皆の力をあわせてなんとかなった。
しかし今回の敵は強力で、皆がもっている必殺技が全く効かない。
どうするんだ、がんばれ、負けるな!
そんな時、思いもかけない秘めた力が発揮され(ホントに思いもかけないのだ)
ひとりのヒロインが新たな必殺技に必要な『新しいコンパクト型のグッズ』が登場。
そのヒロインは初めてにも関わらず、そのグッズを華麗に使いこなし
生み出された新しい必殺技で敵を撃退したのだった。
これを見ながら、そういう展開かという驚きと、マズイという予感がした。
案の定、新しい技に必要なグッズのCMがすかさず流れた。
「きっと、ほしいって言っているだろうな」

夕方、妹からメールが届いた。
「誕生日プレゼントを選びにトイザラスに行ってきたよ。
そうしたらもう、今朝の商品が出てました。
どうしてもそれがいいと言うので、それを誕生日プレゼントにしました。
今、簡単な誕生日会をしています。ケーキのメールを送るね」
『やはり、そうだったか』
可愛いケーキの写真を見ながら思った。
今朝、紹介されたばかりの商品が目の前にあったら、そりゃあほしいだろう。

子どもたちにとってはヒロインが『新たなる力』をつけることは、とても夢がある。
しかし、関連商品を売るためという大人の理由が入ってくると、どんなもんだろう。

ふと疑問を感じた。

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2008年9月 1日 (月)

『The Dark Knight』

『ダーク・ナイト』を観た。
バットマンシリーズは全作観ているが、今回の作品への思いは格別だった。
タイトルから初めてバットマンが消えたことしかり、
「今までと何かが違う」という期待をもって映画館へ出かけた。
以前の作品で大好きなジャック・ニコルソンが演じていたジョーカーを
ヒース・レジャーが演じることにも大変な興味を持っていた。
そして期待通り(以上)に、開始5分でジョーカー=ヒース・レジャーの魅力で
私の心臓はぐわっと鷲掴みにされてしまった。

ティム・バートンの描いたバットマンも好きだ。
コミックからそのまま抜け出てきたような魅力的なキャラクターと
彼の独特な、少しおどろおどろしい世界観は
スカッとしたヒーローとは明らかに異質のバットマンにとても合っている。
その中でのジョーカーは何処かコミカルな「マッド・クラウン」のイメージそのままだ。
色にこだわり、女好き、独自のお洒落、ステータスをもっているジョーカーの
なんとセクシーなこと。(まあ、演じているジャックがそうだから仕方ない)
彼が画面に現れるたびに”うっとり”の私。

しかし今回は全く違う。
ヒースの演じたジョーカーには常識は一切通用しない。
金もファッションも、おそらく女にも全く興味は持たず
(本編でそういった感があるが、個人としてはファッションには拘りがあったと思う。
 また、女に興味がないというのは個人の願望が多く含まれるのであしからず。)
どちらかというとサイコな部分が突出されていたように思う。
自分の欲求を満たす為だけの常軌を逸した行動は
これまでの中で、最強、最悪、最大のバットマンの敵というのは間違いない。
同情する微塵もない救いようのないジョーカーが、これまたセクシーなのだ。
物語の後半、病院の場面でのコスチュームや行動を見てクスッと笑い、
おまけに「かわいい」なんて思ってしまった。
そして最後にジョーカーが生きていることにホッとしてしまった。
ヒースの魅力にゾッコンだった。

物語のクライマックスで、ジョーカーは究極の二者択一を迫る。
極限状態での人の行動をあざ笑い楽しんでいる。
なんて悪趣味。
しかし、全てが悪のジョーカーよりも、
ぎりぎりで本性を現す善人面した人の方が恐ろしいと感じたのは
私だけではないはずだ。

バットマンのクリスチャン・ベール
トゥーフェイスのアーロン・エッカート
ゴードン警部のゲイリー・オールドマン
ルーシャスのモーガン・フリーマン
アルフレッドのマイケル・ケイン

ヨダレが出そうなキャストが並んでいる。
悪いところを捜すことができないほど「いい」。
しかしこれだけのキャストの中でもヒースの存在は稀有だった。
エンディングロールが流れているとき、
本編の感動と、ヒース・レジャーへの思いが溢れた。
特に、もう二度と彼の新しい演技を見ることができないことを思うと
涙がとめどなく流れた。

普段はひとりきりで映画に行くが、今回は珍しく何年ぶりかで息子と一緒だった。
いつもはひとりで悶々としながら家路につくが
今回は興奮冷めやらぬふたりで、話をしながら帰った。
「デートみたいね」なんて言ったらきっと「ふん」と鼻で笑われるので避けた。
たまには誰かと行くのもいいもんだ。

『ダーク・ナイト』・・・闇の騎士
もちろんバットマンを表現しているが、それだけなのか?
この感動をまだまだ話し足りない私である。

 

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2008年8月25日 (月)

38.15秒

感動でいっぱいの北京オリンピックが閉幕した。
各種目の選手たちの活躍が熱いメッセージとなって連日伝わってきた。
語りだすととまらないが、
陸上トラック・男子400メートルリレー銅メダル獲得の瞬間を思い出すと
今も胸が熱くなる。

陸上トラック種目でメダルを獲得するのは80年ぶりだと報道されていたが
80年前のメディア報道状況を考えると、おそらくテレビを見ている100%に近い人が
実際にメダル獲得を目にするのは初めてだっただろう。
体格、身体能力からみると、日本人は他の国の選手に勝っているとは言えない。
技を使える競技では活躍できる術もあるが、
単純な競技ほど差は歴然と出てしまう。
その最も顕著なのが、陸上短距離種目かもしれない。
100メートル決勝では、明らかに体格の優っている選手達が並んでいた。

リレーは4人が揃って成立する。
ひとりひとりのタイムの合計では世界で戦うのは難しいため
バトンパスを工夫したことは皆さんもご存知のことだろう。
無駄のないバトンの受け渡しで、いかに時間が短縮できるかが勝負だった。
そしてそのために4人の選手がどれだけの時間を費やしていたのか
彼らの決勝タイム『38.15秒』のためにどれだけの努力をしていたのか
それを考えるだけで、涙が出る。

努力は報われる。
準決勝で、個人個人の能力が優る国々がバトンパスの失敗で失格になる中、
いつも通りの冷静さで彼らは決勝へ進出。
そして、ついに見事な銅メダルを獲得した。

全員の努力や活躍は言うまでもないことだが、中でも朝原選手は格別だ。
彼はリレーのアンカーという重責を常に背負い
アトランタではバトンパスの失敗で走ることができず
シドニーで6位、アテネで4位、
そして北京で、素晴らしい銅メダルを手にした。
ここまでの道程や気持ちを考えると本当に切ない。
結果だけ見れば着実に上を目指し、実現しているようにみえるが
私ごときが推し量る以上の葛藤を乗り越えて
自分自身と戦っていたんだと思うと再び涙が溢れた。
本当によかった。

このオリンピックで、自分の思うような結果がついてきた選手もいる。
しかしその反面、結果が出せず悔しい思いをした選手も多い。
そしてそのことについて、勝手な解釈をつけるマスコミや人々。
なぜ?
負けたいと思って臨む選手はいない。
自分の成果を、4年に1回のわずかな時間のためだけに
自分を高め、コンディションを整え、最大限の努力をしている選手に
なぜそんなことが軽々しく言えるのか・・・。
私には到底理解できない。

「大変申し訳ない」
選手や監督のインタビューでこんな言葉を耳にした。

何か違っている、何かおかしいとは思いませんか?

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2008年8月18日 (月)

お盆休みの過ごし方

先週からしばしの休暇だった。
休みの前は、お盆休みの過ごし方について、
普段時間がなくてできないことを、あれもしようこれもしようと計画していたが
結局はほとんどが妄想で終わってしまった。
墓参りに始まり、途中オリンピックと甲子園の熱戦に没頭し
そして今日もその熱は冷め遣らずが現況だ。

朝起きるとやおらテレビをつけること、それから一日が始まる。
すると期待通りにオリンピックの話題満載だ。
4年に一回の祭典を見るっきゃないでしょとばかりに、
前日のハイライトシーンを確認し、午前中の水泳の決勝をチェック。
午後も見逃せない競技があるから、その合間にスーパーで食料の確保。
夜は夜でどうしてもはずせない種目が目白押し。
うれしい誤算で、興味がなかった競技もメダルをとったりしたら
急遽その放送も組み込まれるので、それも見ないわけにはいかないし。
そしてそれにプラスして、地元高校も甲子園を勝ち進んでいるので
この応援ははずすわけにはいかない。
と、ひとりで勝手に盛り上がる毎日。
あれもこれもそれもどれも・・・そりゃあもう大変だ。

というわけで、私のお盆休みは、当初計画していた
①家の隅々をきれいにしよう
②たまっている布でエコバックを作ろう
③先日買ってしまった布でワンピースを縫おう
④読みかけの小説を読みきろう
⑤最低1回は映画館に行こう
⑥来週に迫った資格試験の勉強をしよう
以上は全て、計画倒れで休暇は終了した。

でも、いいんだ。
少しぐらい家の中がきたなくても(少しぐらいではないかもしれないが)
手のつけられていない布や本がたまっていっても
朝から夕方までパジャマで過ごすことになっても
そして冷蔵庫や戸棚から食料がなくなり、ぎりぎりでスーパーへ走ることになっても
オリンピックや甲子園での素晴らしい一瞬を見逃すことに比べたら
『へのカッパ』だ。
選手達のひたむきな姿に一緒になって一喜一憂することが
私にとって最高の心の休息になった。

がんばれ日本
がんばれ甲子園球児
おばちゃんは、これからも応援するよ~!

この休みでは、言い訳でなく、何もしなかったからこそ
良い意味で頭の切り替えができるんじゃないかと思う。
すっかり熱くなった応援モードを心の糧に
これからの仕事モードへの切り替えに活かしていけそうだ。

しかし、来週に迫った資格試験の対策だけは、
またまたどげんかせんといかん』のが現実だ。

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2008年7月30日 (水)

人生を変えた映画

朝の情報番組で、人生を変えた映画」のアンケートを実施している。
(他にも「泣ける映画」「スカっとする映画」も実施中)
そこで私も、自分の人生を変えた映画って何だろうと考えてみた。

私の人生を変えた映画は、アンケートでも高い順位を示している
『サウンド・オブ・ミュージック』だ。
以前にも少しふれたことがあるが、この映画が私の映画好きの原点である。

サウンド・オブ・ミュージックがアメリカで封切られたのが1964年。
翌年にアカデミー賞を受賞し、日本で上映が開始したのが同年、
私が無理やり映画館へ連れて行かれたのが3歳のときである。
その時の私は『サウンド・オブ・ミュージック』なんて映画は見に行きたくなかった。
アニメだったらまだしも、有名な映画賞を取ったという価値も意味もわからないのに
内容も分からない全編英語の且つ長~い映画を見なければならないのだ。
これは3歳の子には苦痛としかいいようがない。
「とても素敵な映画だから静かに見ていようね」と言った母に
半べそをかきながら「嫌だったら出てもいい?」と言ったことを、うっすらと記憶している。

映画が始まった。
マリアが歌う『The Sound of Music』に圧倒された。
歌っている姿をグーンと引いたスケールの大きな影像に目を奪われた。
家庭教師先の子どもたちがマリアに惹かれていく内容と同調するように
私も彼女の魅力に引き込まれていった。
始めは母が字幕を読んでくれていたが途中から「もう読まなくていい」と断った。
字が読めなくても、言葉が分からなくても、映画の素晴らしさに魅了されていった。

この作品の音楽が重要なことは言うまでもない。
現在では当たり前のように音楽の教科書に載っている馴染みの旋律を初めて聞いた。
ドレミの歌(Do-Re-Mi)
私のお気に入り(My Favorite Things)
エーデルワイス
他の曲もどれもこれも良いのだが私は特に
すべての山に登れ(Climb Ev'ry Mountain) が大好きだ。
修道院長が自分の気持ちに迷っているマリアに向かって歌うシーンでは、
幼少ながらに「このおばちゃん、かっこいい」と感動した。

後半の戦争が絡む内容の意味は、当時の私には理解できなかったが、
その後何度か見直しているうちに、徐々に自分なりの解釈をした。
この作品は影像で戦争を具体的に表現していることはないが、
音楽祭で、亡命を決意した大佐が歌ったエーデルワイスに
会場全員の歌声が重なり大合唱となるシーンは象徴的だった。

家族が修道院へ逃げ込み隠れているシーンではハラハラドキドキ。
そしてエンディングで山を登るシーンで、再び『すべての山に登れ』が流れる。

映画館を後にするときは、映画を見る前の嫌な気持ちは全くなく
とても楽しい気持ちで帰ったことを覚えている。

しかし、日本語も満足に使えない年端もいかない子どもを
全編英語、字幕つき、長編映画に迷わず連れて行った母はすごい。
私にどうしてもこの映画の感動を味わわせたかったのか
それとも母自身ががどうしても見たい一心だったのかは謎だが
この母の行動によって、私の映画好きのルーツが始まったのだから
今は大変感謝している。

まさに私の「人生を変えた映画」、映画大好きの礎となった作品だ。

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2008年7月24日 (木)

『奇跡のシンフォニー/AUGUST RUSH』

映画『奇跡のシンフォニー』を先週やっと見た。
細かいところはおいておいて”良かった”が感想だ。

両親を知らずに施設で育った少年エヴァンは、類稀な音楽の才能に溢れていた。
施設内でいじめられても毅然とした態度でひるむことがなかったのは、
彼が両親と必ず会えると信じていたから。
ある日、彼は両親を捜すために施設を飛び出す。
たったひとつの頼みの綱である電話番号のメモをなくしてしまったが、
ストリートチルドレンとの出会い、子どもたちの元締めの男との出会いから
彼の音楽の才能が開花していく。
その後、教会でのゴスペル少女と神父との出会い、音楽院への入学
そしてラストの壮大な交響曲の演奏シーン。

エヴァンの物語の流れに、両親の物語もシンクロしていく。
チェリストの母とロックミュージシャンの父。
ふたりの出会いとエヴァンの出生の秘密。
意図として別れたわけではないことに気づいた母がエヴァンを捜し始める。
父は忘れることができない母を捜し始める。
三人がそれぞれ音楽で結ばれ、信じることを忘れずにお互いを求め始めたとき
それまでぐちゃぐちゃに縺れていた糸が、少しずつ解けていく。
そしてラストシーンへと繋がっていく。

映画の最初の麦畑のシーンが清清しい。
エヴァンが風の音、麦の穂の動き、大地の鼓動、
すべてのものに音楽を感じていることが実感できる。
そしてNYの雑踏の中で、足音、車の騒音、地下鉄、信号、etc.
あらゆるものがリズムと音楽を奏でているように聞え
あまりの音の量に困惑している彼の顔も印象的だ。
教会でバスケットをしている音を感じながら、楽譜をかくシーンもそうだが
あのように音が聞えている人もいるんだなと、少し羨ましかった。

エヴァンが初めて弾いたギターの音
パイプオルガンの音  教会のゴスペル
母のチェロの演奏と重なる父のロック
ストリートチルドレンの男の子の歌声  
素敵な音楽シーンが満載だが、私の一押しは
お互いに親子とは知らずに父と子がギターをセッションする場面だ。
感動と何ともいえないもどかしさを感じて涙が溢れた。

『月』も印象的だ。
両親の出会いに登場する月  流れる音楽”MOON DANCE”
そしてエヴァンが施設の窓から見ている月
NYの街で天窓から見える月
まるで三人が月に導かれているようにも見えた。

エヴァンが施設を出たくないと面談員に話すシーン
母がたくさんの写真の中から自分の息子だと確信するシーン
父がやっとわかった母の住まいを訪ねひとり待つシーン
他にもたくさんの心打つシーンが残っている。

交響曲を指揮するエヴァン
指揮する息子を見つけた母
交響曲演奏の告知の中に、愛する人と偶然会った男の子の名前を見つけ走り出す父
距離がだんだん近くなり、最後に同じ場所に立つ三人
日本の題名どおり『奇跡』の出会いがラストに訪れる。

私個人としては『奇跡』とは思わない。
「こんな偶然が重なるわけないから奇跡だ」と言われるかもしれないが
偶然ではなく必然だと思うから。
私たちの誰もが「あのときああなっていたら今はどうなっていたのだろうか」
そんな経験をしているのではないだろうか。
この映画はまさに、三人の思いが重なった必然だと思う。

『信じる心を持っていれば必ず夢は叶う』ものだから。

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2008年7月16日 (水)

『CHANGE』最終回

『CHANGE』が最終回を迎えた。
以前、『スミス都へ行く』と似ている点をブログに書いたことがある。
私が気づくぐらいのことなので、当然同じように思っていた映画ファンは多く、
その後、ネットの書き込みやブログでも
この映画と似通っている部分をかなり指摘されていた。
私も、ついつい気になり、ドラマは結局最後まで見てしまった。

おそらくCHANGE制作関係者は世間の声に耳を済ませていたのだろう。
途中から「映画とは違う」ことを表現しようと意識しすぎていたように思われた。
オリジナルのエピソードがいくつか入っていたが、間延びしてしまったようにみえた。
まあ、連続ドラマなので10回分を作らなければならないので
仕方がないといえば仕方がないが。
映画を無理やり連続ドラマにすると、ぐずぐずになってつまらないものになることがある。
いい例が、同じ時期に放送されていた『猟奇的な彼女』だ。
これは映画を知っているだけに見るに堪えられなかった。(ごめんなさい)
なぜこういう内容のドラマにしてしまったのか、残念の一言だった。
そもそも『猟奇的な彼女は』、
お~っと、語りだすと長くなってしまうのでこれは他の機会にすることにして、
話をCHANGEに戻そう。

自分を政治の世界へ導いてくれた最も信用していた大物政治家が
実は自分を利用しているだけだったことを知り愕然とする主人公。

彼が心から愛するようになる女性秘書に対しても一時は不信感を感じるが
彼女も心から自分を愛してくれていることに気づき、
最後はお互いが一番の理解者・パートナーになること。

大物政治家は彼がこれほどの情熱をもって仕事に取り組み、
更に皆から支持を集めることになるとは思ってもいなかった。
利用するだけのたわいもない男だと、彼を過小評価していたという大きな誤算。
自らの一番手ごわい相手になるとも知らずに。

そしてラストの主人公と大物政治家との対決。
奇しくも主人公は尊敬していた政治家に対立しなければならなくなる。

以上のように内容の軸は、『CHANGE』と『スミス都へ行く』はとてもよく似ている。
しかし、ラストの対決方法だけは違っていた。
朝倉が議会で倒れた時は「ここは同じか」と思ったが、内容はかなり異なる。
これは前者が『総理大臣』、そして後者が『上院議員』の違いからきている。

スミスでは、主人公が一議員だった為、議会をのっとるという手段で反撃に出る。
これは、いったん発言権を得れば発言をやめない限り、無制限に演説をすることが
できるというルールを利用した、合法的な議事妨害手段「フィリバスター」というものだ。
日本だと議会の進行を遅らせる為の「牛歩戦術」が有名だ。
そしてこの映画の見せ場、延々と続く議会シーンが生まれた。

一方、CHANGEでは総理大臣の生放送演説が設けられ、
生放送で直接自分の気持ちを伝えることができた。(スミスの立場では無理)
そして「解散・総選挙」を発令することで、形勢逆転。
意図していたのか、していなかったのか、結果としては反撃が成功した。
どちらも総理大臣の立場があってこその方法だ。

ラストは両者とも、『汚職』にからんだ政界のウミを出すこととなる。
そして、どちらも本当の結論は出ないままにエンディングを迎える。

しかし、見ている私たちの心に政治に対しての『希望』を残してくれたこと・・・。
この心地よい余韻は、共通していた。

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2008年5月29日 (木)

『CHANGE』と『スミス都へ行く』

月9枠で『CHANGEが始まった。
始めから感じていたのだが、私の大好きなフランク・キャプラ監督の
『スミス都へ行く』を彷彿とさせる内容だ。
この映画は、今から約70年前に発表された1939年の作品だ。

内容は、急死した上院議員の穴を埋めるために
田舎の少年団のリーダーを務めるスミスが、
アメリカで一般的な名前だと言うだけの理由で選出される。
実は他の議員からすると、政治に疎い「イエスマン」がほしかっただけなのだ。
しかしスミスは議員たちの目論見とは違い、政治に熱い情熱をもって取り組んでいく。
始めは彼を嫌っていた女性秘書や周りの人々も徐々に彼の魅力に惹かれていく。
その後スミスは、ある汚職事件と、その事件に関わる人物たちを知ることとなる。
腐敗した政治に、真っ向から立ち向かうことを決めたスミス。
スミスのとった戦略は。
そして、ラストの法廷シーンへと繋がって行く。

映画のスミス役は善良な人を演じさせたらぴか一のジェームス・スチュアート。
そしてCHANGEでは、木村拓哉が演じる朝倉啓太が主人公。
少年団のリーダーが小学校の教師に、
上院議員の急死が、実際の父と兄の急死に設定は変わっているが
子どもに慕われていたり、真面目でどこか人を引き付ける憎めない性格など
似通った部分も多い。
また、政治に担ぎ出されるシチュエーションなどはそのままだ。
他にも、初めは主人公に良い印象を持っていない深津絵理演じる女性秘書、
(映画でのこの役は、私の大好きなジーン・アーサーが演じている)
主人公を陰で操り実権を握ろうとしている大物政治家の寺尾聡など
彼を取り巻く人間も、映画の登場人物を多いに思わせる。

メディアに登場する影像で、どこかで見たことがあるもの、
明らかに過去のものの影響を受けていると思われるものが結構ある。
そしてそれは影像に限ったことではない。
私たちは様々なものを見て、聞いて、「いいなぁ」と思ったものを
知らず知らず取り入れていることがあるのではないだろうか。
リメイクではなくオマージュとして堂々と発表している人もいるが、そうでない場合、
現在、新聞をにぎわしている『著作権』の問題がからんでしまうのかもしれない。

『CHENGE』の脚本はオリジナルとのことなので
まさか、今後の展開は同じということはないだろう。
女性秘書との間に恋愛感情が芽生えたり、
主人公が大きな陰謀に巻き込まれていったり、
一番の理解者だと思っていた大物政治家が実は・・・。
う~ん。なんか、そうなっていきそうな雰囲気が漂っている。
これは私の勝手な推測だが、
『CHANGE』の製作者は『スミス都へ行く』を必ず見ているはずだ。
そして少なからず、影響を受けているのではないだろうか。

さて、これからの物語の内容によって、
オリジナルなのか、オマージュなのか、それとも(言葉は悪いが)パクリなのか。
今後の展開が大変気になる私である。

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2008年5月24日 (土)

字幕離れ

若年層の活字離れがすすんでいるそうだ。
そういえば、本を読んでいるかどうかの質問をすると
殆どの学生が「ない」と答える。
活字が大好きな私にとっては、さみしいの一言だ。
そして最近、さらに私にとってショックな内容が紹介されていた。
映画の『字幕離れ』だ。

理由はというと、
・字幕を読むのが面倒だ
・外国語だと言葉の意味がわからなので感情移入ができない
・字幕の出るスピードについていけない
・日本の映画の方が好きだから外国映画は見ない
等が挙げられていた。
また、こういった意見から、字幕ではなく『吹き替え』の映画が増えているという。

私は、俳優さんの声が替わってしまうのに違和感があるので
映画は必ず字幕で見る。
字幕を読むのに面倒だと思ったことはない。
小説やコミックが映像化されるのに違和感を感じてしまうくらいだから尚更だ。
感情移入、できますよぅ。得意分野だ。
有り余るくらいの妄想で、エンディング後まで想像してしまう。
字幕のスピードには一応まだついていける、だろう。
そして日本の映画も好きだが、外国映画も大好きだ。

繰り返しになるが、特に驚いたのは『面倒だ』という意見だった。
字幕を読むことが面倒なのか、
もしかすると映画を見ること自体が面倒なのか・・。
もっとさみしい気持ちになった。

小さい頃から映画に行くことが楽しみだった。
映画館の大きなスクリーンで見る映像に圧倒された。
幼稚園のとき初めて字幕の『サウンド・オブ・ミュージック』を見た。
始めは字の読めない私の横で母が字幕を読んでくれていたが
途中から映画に没頭した母の声は少なくなっていった。
字幕が読めなくても、セリフが理解できなくても
私はその時の震えるほどの感動を、今も鮮明に覚えている。

時間に追われる日々が続いている。
いけない、いけない、それって言い訳だ。
”時間は自分で作るもの”だ。
気持ちにゆとりを持てるように映画を見に行こう!

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2008年5月14日 (水)

『月とキャベツ』

ずっと、見たかった映画がある。
大好きな作品なので以前はVHSに保存してあった。
知人から貸してほしいと言われ貸したはいいが返ってこない。
何度か返却の催促をしたのだがごまかされ、言う気もなくなり、
その後知人とは疎遠になり、結局それっきり。
おそらくなくしてしまったのだろうが、今ではそれも知る芳もない。

ないと思うと、余計に見たくなるのが常。
レンタルビデオ屋さんでVHSは見かけたことはあるが、
家のビデオデッキが遂に壊れてしまい再生ができない。
DVDでは見かけないのであとは購入するしか手はない、と思っていたら
先日、新聞のテレビ欄の深夜映画劇場で捜し求めたタイトルを発見した。
『月とキャベツ』だ。

山崎まさよしが、架空のミュージシャン・花火(はなび)役で出演している。
花火は人気ロックグループのボーカルだった。
グループ解散後、田舎でひとり、キャベツを作りながら暮らしている。
新しい何かを求めて音楽活動から離れているものの、
花火は曲を作れず(作らず)に1年以上経過しているという設定から物語が始まる。

この映画の魅力は、なんといっても初主演の山崎まさよしだ。
彼の少年のような、そして時にはとても大人びた表情に釘付けだった。
とにかくいい。
この時点(1996)ではメジャーデビュー(1995)したばかりの彼の名前は
あまり知られていなかった。
曲も殆ど聴いたことがなかった私はスクリーンでまじまじと彼を見て
思わず虜になった。
(うちの母にはSMAPの『セロリ』を作った人と説明すると理解してもらえる)
映画の中で使われている曲は、架空のグループの作品という設定で
実際の山崎まさよしの楽曲が使われている。
アルバム”アレルギーの特効薬”からの使用曲が多いが、
『One more time, One more chance』というバラードが、この作品の軸になっている。

『One more time, One more chance』はこの作品で一躍脚光を浴びた。
もともとメジャーデビュー前に作った曲で、それまでリリースされていなかったようだ。
最近でもアレンジを変えてアニメ主題歌に使われたりと曲が一人歩きしているほどだ。
数年前の紅白歌合戦でも歌詞に登場する桜木町で
山崎まさよしがギターを弾きながら歌ったのを聞いた人も多いのではないだろうか。
この曲に限ると、私は、この映画のエンディングのピアノでの演奏が一番好きだ。
物語の最後に、彼が搾り出すように歌う姿。
華奢な体とは裏腹な、ものすごいパワーとエネルギーを感じる歌声。
胸を締め付けられるような切なさで、涙が溢れた。
(2回目ですが)とにかくいい、の一言だ。

映画の中には、多少は唸ってしまう部分もあるものの
現実と夢が混ざっているような、胸の部分がもやもやしているような感覚が味わえた。
とにもかくにも、
山崎まさよしのミュージシャンと俳優というふたつの才能を感じられる作品だ。

そういえば、今や人気絶頂のチュートリアルがM-1の決勝戦のネタ『チリンチリン』で
「それからというもの、俺は捜したよ。捜し続けたよ。
向かいのホーム、路地裏の窓、そんなとこにいるはずもないのに
と、『One more time, One more chance』の歌詞を引用して大爆笑をとっていた。
世間的に皆がこの曲を知っていたのでうけたのだろうが、
これは喜ぶべきか、悲しむべきか・・・。

どちらも好きなので、素直に喜ぶことにした私だった。

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2008年4月17日 (木)

『カッコーの巣の上で』

ジャック・ニコルソンが大好きだ。
「バットマン」のジョーカー、「恋愛小説家で」の潔癖症で変人の小説家、
「シャイニング」の狂気迫る犯罪者、「アバウトシュミッツ」の頼りなくて情けない中年男。
どれもこれも素敵なのだが、彼の魅力は他の機会にたっぷり語ることにして、
今回は、特に衝撃を受けた映画『カッコーの巣の上で』について熱く語りたい。

刑務所の強制労働を逃れる為に、精神病患者を装い病院へ送られてきた
問題行動の多い、マクマーフィー:以下マック(ジャック・ニコルソン)。
病院内で絶対的な権力を持つ、冷酷な婦長ラチェッド
耳も聞こえず口をきけないふりをして入院し、社会から逃げて暮らしている
インディアンの大男チーフ
この3人を軸に物語りは展開する。

舞台の病院は、婦長の支配下にあり、専制的な管理体制がとられていた。
そういった病院の管理体制に疑問を感じたマックは反発を繰り返し、
それを徹底的に排除する婦長とことあるごとに対立する。
マックの行動は、少なからず問題はあったが、
入院患者と少しずつ心を通わせ、彼らに生きる気力を与えていく。
そんな中マックは、自分と同じように「ふり」をして入院しているチーフの存在に気づく。
心を閉ざしていたチーフもマックにだけは徐々に打ち解け、
いつしか二人で「この病院を出て行こう」と心を通わすようになるが、
ひとつの事件がふたりの未来を大きく変えることになる。

なんとも後味の重い作品だった。
初めて見たのが高校生のときだったが、あまりの衝撃で吐き気がした。
ホラー映画のように見ていて「キャー」となるのではない。
映像が気持ちが悪いとか、恐ろしいのではない。
しかし、当時の私にはとてつもなく恐ろしい映画だと思えて身震いがした。
その印象は今見ても変わらないどころか、更に増している。

『カッコーの巣の上で』というタイトルは、
マザーグースの詩が元になってつけられたというが、(ここにもマザーグースが)
内容はカッコーの生態そのものが暗示されている部分も多い。
そもそもカッコーは、他の種類の鳥の巣に卵を産み付けて、
自分の代わりにヒナを育てさせるという習性をもっている鳥だ。
また卵が2つ以上産み付けられ同時に孵った場合(または以前から卵があった場合も)
1匹が他のヒナを巣から落とすという行動をとるという。
そのため巣からは1匹しか巣立たない。
私には、カッコーの巣を病院、そして旅立つヒナをチーフ投影しているように思える。
そして、落とされるヒナはマックに。

婦長役のルイーズ・フレッチャーに強い印象が残る。
もしかすると彼女の存在が、作品全体を恐ろしいものにしているのではないだろうか。
患者にとっては母親のような役割であってほしい婦長が、間逆に描かれている。
まるで、わが子を育てないカッコーの親のように見える。

最後のシーンが瞼に鮮明に残る。
「持ち上げると奇跡が起こる」とマックが言っていた洗面台を持ち上げようとするチーフ。
見事持ち上げたチーフはそれを窓に投げつける。
ポッカリと開いた穴からチーフは病院を後にする。
草原の中を走っていくチーフの後姿で、映画は終了する。

チーフは『カッコーの巣』を本当に飛び立ったのだと、私は強く信じたい。
ふう。
考えるだけでまた、どよーんとした気持ちになってしまった。

とてつもない映画だ。

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2008年3月10日 (月)

『十二人の怒れる男』

”刑事裁判において、市民が参加して判決の内容を決める制度”
この『裁判員制度』が、近い将来、日本でも導入されることが決定している。
私達には馴染みが薄いこういった制度も、世界の各国ではかなり導入されており
特にアメリカでの『陪審員制度』は、知っている人も多いのではないだろうか。

この陪審員制度を語る上で、よく引き合いに出されるのが
『十二人の怒れる男(12 Angry Men)』という映画である。

これは、父親殺しの罪で起訴された少年の裁判を
12人の陪審員が評決に達するまでを描いた映画である。
当初、法廷で提示された証言や証拠は、少年に対して圧倒的に不利なものばかりで、
たった1人を除く陪審員は、少年の有罪を確信していた。
しかし、その1人の陪審員(ヘンリー・フォンダ扮する主人公:8番陪審員)が
証拠の疑わしい点を、一つずつ調べることを主張したことから、
他の陪審員にも心の変化が起こり・・。
ひとつのまとまった評決が、ラストへと凝縮されていく。

この映画は、始めから最後まで12人が一室で議論する様子だけで構成されている。
いわゆる、密室劇なのだが、めちゃくちゃ面白い。
余談だが、今では考えられない超低予算、且つ約2週間で撮影・製作されたという。
現在の高予算+CGをふんだんに使った映像とは全く違うが、
私にとっては、それらに見劣りするどころか、逆に上をいく印象深い作品だ。
「物語は脚本がおもしろければ場所は関係がない」
という代名詞になった作品だと、胸を張って言いたい。

確か、筒井康隆氏や三谷幸喜氏が「十二人の」から始まる作品を出していたはずだ。
これは、『十二人の怒れる男』の影響ということは間違いない。
特に三谷さんの作品に密室劇が多く、脚本の面白さでグイグイ引っ張っていく手法は
「きっと三谷さんもこの映画が好きなんだろうな、すごく影響されたんだろうな」
といつも勝手に推測している。

また、この12という数字をキーワードにしたものも多い。
アガサ・クリスティの作品の中には、けっこう出てくるような。
これも、「陪審員は12人」ということから、効果的に12という数字を使っているのだろう。
「人を裁く=12人にしているのだなあ。
 (人が人を裁くことは出来ないとは思いますが、物語上のことと理解して。あしからず)
それで、『オリエンタル急行殺人事件』で、ああなるんだ。ほほ~っ。」
と、また一人で大好きな妄想の世界に入っていく。

ああ、楽しい。

実は、いつかは自分でも「密室でおこったミステリー」を書いてみたいと、
大きな野望をもち続けている私である。

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2008年2月19日 (火)

『ラスト・コーション』

久々に、会社帰りに映画を見た。
最近はDVDを借りたり、ネットで見ることばかりだったが、やはり映画館はいいものだ。
私はコーヒーとパンを買って、かじりながら見るのが定番で、
「金曜日=女性デー=1000円」ということもあり、一人で入ってくる女性が多かった。
映画は『ラスト・コーション』

1940年前後の日本軍占領下の上海で、
時代の中で、抗日運動に巻き込まれていく女性ワン・チアチー(タン・ウェイ)
抗日運動に情熱を燃やす青年クアン(ワン・ホーリン)
彼らが暗殺しようとする特務機関の高官イー(トニー・レオン)
この3人を中心に物語は展開する。
クアンを中心とした学生達が実行した、初めの稚拙なスパイ計画は失敗に終わるが、
数年後、彼らは大きな組織の中で、本物のスパイ計画に身を投じることとなる。
チアチーはマイ婦人としてイーに近づき、
誰も信じようとしないイーの心の中に踏み込むことを要求される。
偽物だったと思われる行動は、いつしか本物に変わり、
物語のラストへと滑り込んでいく。

この映画で象徴されるシーンは『麻雀』『ベッドシーン』だろう。
麻雀は、今でいうセレブ婦人達の唯一の娯楽であった。
何度か麻雀のシーンが登場するが、その時の状況や心理が
セリフと共に”目配せ”で憶測できるのが恐かった。
麻雀というゲームに興じているようで、実は、心の駆け引きがされているように感じ
特に、何でもお見通しと言わんばかりのイー婦人の目には、ぞくっとさせられた。

ベッドシーンは公開前から過激な評判があった。
というか、ベッドシーンばかりがクローズアップされていたが
実際は全く違った印象を受けた。
3度のシーンが登場するが、段々に二人の関係が変わっていく様が表現されていた。
一度目は、イーが半ば暴力的に、
二度目は、気持ちが通じているようだが、未だチアチーは演じているようにも見え
三度目は、チアチーの心の中の恐れと、イーの怯えのようなものを感じた。
二人とも人には絶対に言うことの出来ない心の奥底を
お互いの身体でしか埋めることができないかとでもいうように求め合う。
私には何故かとても切なく思えた。

ラストの内容を書くのは野暮極まりないので避けるが、
私だったら違う選択をしただろうな、と思う。
きっと、チアチーのとったような行動はしなかっただろう。
彼女がとった行動を思い返すと、これまた切ないほど強いものだった。
最後に映し出される彼女の微笑が清清しく見えたのは、私だけだろうか。

主役の二人、トニー・レオンとタン・ウェイは素晴らしかった。
しかし、私はワン・ホーリン演じるクアンの存在がこの映画の鍵のように思える。
はっきり言って、この映画の中で、クアンは大嫌いな存在だった。
特に嫌だと思わせるシーンが二つあった。
一つ目は学生時のスパイ活動中、チアチーに身体と共に心の傷を負わせる場面。
「なんて男なの、最低」と強く思った。
そして二つ目は、チアチーがイーの愛人になってから本部に手紙を届けた後。
「なんで今更・・・。やっぱり最低」と、チアチーのセリフと同じ気持ちだった。
こいつ(クワン)さえいなければ、チアチーは違った人生を歩いていただろうに、と思うと
クアンに対して嫌悪感が募った。

石切り場の深い闇に吸い込まれるように、
イーの気持ちも吸い込まれていくような気がした。
イー演じるトニー・レオンの最後の目はとても印象的で、
抱きしめたくなるような悲哀とセクシーさを感じずにはいられなかった。

帰り道、駐車場までの道を何とも言えない割り切れない気持ちで、
トボトボと歩いた。
私の心の中に『切なさ』をたっぷりと残された映画だった。

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2008年2月 1日 (金)

がんばれウルトラマン

いつの時代も、ヒーローものって人気がある。
女の子だとプリキュア、ちょっと前はセーラームーン、私の頃はリボンの騎士(古い)。
男の子はウルトラマン、仮面ライダー、○○レンジャー、
大人になっても、スーパーマン、バットマン、スパーダーマン etc。
好きなタイプのヒーローは人それぞれ。
皆さんお気に入りのキャラクターが、ひとつやふたつあるのではないだろうか。

息子のお気に入りはウルトラマンだった。
ウルトラマンから始まって、セブン、レオ、エース、タロウ、エイティー、
はたまたウルトラの父・母、ゾフィーなど、
普段、地球を守っていないウルトラマンまで登場するから大変だ。
何かのイベントごとにウルトラマンのフィギュアが彼に買い与えられ、
気がつけば、歴代ウルトラファミリーが揃っていた。
大きなケースに無造作に入れられたウルトラファミリーは、毎日廊下に並べられ、
掃除の邪魔だと撤去されたり、時には猫から理不尽な攻撃を受けていた。
またある日はレオが買い物に、タロウがお風呂に、そしてセブンが布団に・・・
彼らは息子と寝食を共にして、よく遊んでくれた。
ありがとう、ウルトラファミリー。

幼稚園の夏休み、街中の大きな公園で、ウルトラマンショーが開催された。
私も朝からハイテンションの息子をつれて行った。
会場へ着くと、幼稚園の友達もかなり来ていたので、益々テンションが上がる息子。
炎天下の中、ウルトラマンショーは幕を開け、
大勢の子供たちの声援の中、ウルトラマンは怪獣と戦った。
「がんばれ~、がんばれ~。ウルトラマン、負けるな~!」
声の限り叫ぶ子供たち。
怪獣を退治したウルトラマンは、会場の子供たちから拍手喝さいだった。

無事にショーも終わり、子供たちのお楽しみの『握手会・サイン会』が始まった。
握手会では二人(?)のウルトラマンが待っていた。
息子もワクワクしながらレオの方の長蛇の列に並んだ。
(私は私で、どんなサインをしてくれるのか、別の意味でワクワクだった。)
それにしても暑い日だった。
じっと並んでいるだけでも、ぐったりするような夏の日差しだった。
そんなことを考えていた時、前の方で叫び声とかなり慌てている声がした。
皆、何があったのか、前方を首を長くして覗き込むが分からない。
列を外れて、前に進んで様子を見てきた子供たちが次々に叫んだ。

「大変だ。レオが倒れた!」

えっ? 無理もない。
この炎天下の中、そりゃあそうだろう。
子供たちの声とは裏腹に「可愛そうに」と目と目を合わせる、お母さんたち。
パニックになる子供たちと、慌てふためくスタッフの皆さん。
その後、ウルトラマンレオは救急車で運ばれていった。
救急車を心配そうに見送る子供たちには、この状況がどんな風に映ったのだろうか。

さて、その後だが、一人残ったウルトラマンがレオの分も引き受けて、
残った全員に、握手とサインを行った。
息子の番になった時、小声で「大丈夫?」と聴くと、
ウルトラマンは、かすかにうなずいた。
そのうなずきが、力なく感じたのは私だけではなかったはずだ。

帰り道。
「かあちゃん。レオ大丈夫かな?」と心配する息子。
「そうだね。心配だね。でも、大丈夫だよ。」
「そうだね。きっと大丈夫だね。」
私は心の中で、でも地球は大丈夫なのか。」と思ったら、
不謹慎ながら笑いが止まらなかった。

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2008年1月25日 (金)

『ニュー・シネマ・パラダイス』

以前、深夜の番組で「大人が選ぶ泣ける映画」を特集し、
ランキング形式でベスト30が紹介されていた。
個人の意見としては「え~?」というものもあったが、
(それは主観なのでおいておいて)
ベスト10に入っていた『ニュー・シネマ・パラダイス』について語りたいと思う。

『ニュー・シネマ・パラダイス』 私の大好きな映画のひとつだ。

サルヴァトーレは、故郷の母よりアルフレードが死んだという知らせを受けた。
30年あまり故郷へ帰っていない彼は、昔の思い出を回想する。
当時、彼は皆からトトと呼ばれていた。
トト少年は、小さな頃から映画に魅了されていて、
村に一つしかない映画館「パラダイス座」の映写室にもぐりこんでは、
映写技師のアルフレードからいつも疎んじられていた。
しかし、いつしか二人の間に年齢を超えた友情が芽生えていく。
トトが少年から青年に、そして大人に。
二人には数々の出来事が訪れるが、トトがアルフレードの勧めで村を出るまで、
二人の友情は変わることはなかった。
そして、現在では映画監督となったトト=サルヴァトーレは、
アルフレードの葬儀で故郷に戻り、駐車場へと変わろうとしている、
殺伐とした「パラダイス座」を訪れる。
映写室に入ったサルヴァトーレは、そこでアルフレードの形見のフィルムを見つける。
そのフィルムを見た、サルヴァトーレの目に涙が溢れた。
フィルムに映っていたのは・・・・。

最後の場面は、何度見てもサルヴァトーレと同じ気持ちになる。
いつも号泣の私。

音楽もいい。
俳優さんもいい。
雰囲気もいい。
大好きだ。

テレビもビデオもDVDもなく、
映画は生活の中での最高の娯楽、みんなの夢や希望であった古き良き時代。
まさに『パラダイス』だったんだなあと、実感した。
「パラダイス座」の崩れていくシーンと共に、
「そんな時代は終わったのか」と、少し切なくて辛かった。
また涙が出た。

トト少年とアルフレードの友情は今も続いていることを信じている。

そして私の中では「ニュー・シネマ・パラダイス」はこれからも続いていくだろう。

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2008年1月 4日 (金)

正月といえば『箱根駅伝』

正月のテレビ放送で一番楽しみにしているのが『箱根駅伝』の放送だ。
何も考えないで笑っていられる「お笑い番組」も大好きだが、
『箱根駅伝』では、筋書きのないドラマが毎年見られることが、たまらない。
最初から最後までじっくり見ていると、
あたかも自分も箱根路をひた走る選手のような、
はたまた、各学校の関係者のような錯覚を起こし、
各チームがゴールする時には涙でぐしゃぐしゃになるほどである。
特に我家の場合、私と妹の母校が、ありがたいことに出場常連校であるため、
毎年、軽く火花を散らしながら、熱い応援を繰り広げている。

陸上の長距離選手には『箱根駅伝』を走ることは特別なのであろう。
息子の友達の中にも、卒業文集の中で将来の夢について、
「箱根駅伝に出場すること」と書いている子がいた。
野球少年にとっての憧れが『甲子園』であるようなものだ。

しかし、この「箱根」を攻略することは一筋縄ではいかない。
年間を通して駅伝は何度かあるが、そこで優勝したチームでさえ、
上位に入れる保障(保証)はない。
平坦、坂あり下りあり、ひたすら直線、山登り、山下り。
様々な条件のコースが、選手の持ちタイムとは違った結果をもたらすことがあるからだ。
そしてそこで、毎年、数々のドラマが生み出されている。
選手の大変さとは裏腹に、そういったドラマを私たち視聴者は見て、
応援したり、感動したり、勇気付けられたり、一緒に泣いたりしているのだ。

今年は波乱のレースだった。
駅伝史上初、3校が途中棄権となった。
個人競技であれば、自分の悔しさだけを抱きしめてレースを棄権することはできる。
しかし、駅伝は自分ひとりでの責任では済まされない。
自分ひとりの行為が、チーム全体に影響を及ぼす。
自分の記録だけが取り消されるだけなく、チーム全員の記録も無効となってしまう。
そして来年、箱根を目指す後輩の夢も摘みかねない。
選手一人一人が今までどれだけ練習し、ひたすら努力してきたのだろう。
その結果、代表に選ばれ、胸をときめかせた夢の舞台で走ることができたのに・・。
途中棄権をせざるをえなかった選手たちの気持ちを考えると、本当に切ない。
そしてその決断をした監督の気持ちも思うと、ものすごく切ない。
監督は選手全員の血の吐くような努力を知っているからこそ、
途中棄権という勇気ある決断ができたのだ。
傍で見ている私たちに、とやかく言うことなんてできないと思った。

嬉しい内容もあった。
関東学連選抜が史上初4位に入賞した。
アンカー選手のコメント「最高っす」は、本当に最高だったのだろう。 
素晴らしい!
学連選抜は出場できないチームから、予選会でタイムのよかった学生を集めて作った
『寄せ集めチーム』と紹介されていた。
「寄せ集め」なんて好きな言葉ではないが、
この制度があったから彼らは実力を証明することができたのだから、良しとしよう。
才能はあってもチームとすると運悪く出場できない選手に、
勇気を与えることができる、これから多いに期待できる結果だったと嬉しかった。

新聞記事で大会会長が、
「速い選手はいるが強い選手がいなくなった」とコメントしていた。
スポーツには技術はもちろんだが、それに見合った精神力をつけることも必要だ。
また、スポーツに限らず、技術や能力を向上させるだけに重点をおいてしまい、
本来の大切な部分が欠けていることに気がつかないことがある。
「技術や能力がある」ことは「技術や能力を使いこなすことができる」ことではない。
実践できて初めて、結果が伴ってくるのではないだろうか。

今回の箱根駅伝での3校棄権と学連選抜4位入賞は、
まさに「速さ・強さ」「ある・できる」の対比を見ているような気がした。

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2007年12月25日 (火)

『素晴らしき哉、人生』

クリスマスには、大好きな映画について書こうと決めていた。

私はフランク・キャプラ監督の映画『素晴らしき哉、人生』が大好きだ。
公開されたのが1946年というから、なんと今から60年も前の作品であるが、
何度見ても飽きない、古さを感じさせない、素晴らしい映画だと思う。
アメリカではクリスマスというとこの映画というほどポピュラーで、
映画『グレムリン』の中でも、クリスマスの日にお母さんが台所でケーキを作りながら
見ているのが、この作品の一場面だ。

主人公ジョージが絶望の淵にいるところから物語は始まる。
彼を助けるために現れた2級守護天使クラレンスが、彼に「もしも」を体験させる。
「自分なんて生まれてこなければよかった。存在しないほうがよかった。」
と自暴自棄になっているジョージに不思議な出来事が起こり、
彼は自分が存在していない世界に、足を踏み入れることとなる。

それにしても2級守護天使というのが面白い。実はこの「2級」が物語のミソなのだ。
クラレンスは、多くの人が思い浮かべる天使像とはかけ離れている。
はっきりいって見た目は『おっさん』で、翼もないので最初は戸惑った。
しかし物語が進んでいくにつれ、このおっさん天使がキュートに見えてくる。

主人公ジョージは、ジェームス・スチュアートが演じている。
彼はキャプラ映画の常連で、『我が家の楽園』『スミス都へ行く』等、主演作が多い。
私は彼には、当時の典型的な誠実で善良なアメリカ人というイメージを持っている。
主人公の妻役のドナ・リードが、めちゃくちゃ綺麗だ。
妻役は最初、私の大好きなジーン・アーサーにオファーがあったということを
聞いたことがあるが、この役に関してはドナ・リードが正解だ、と勝手に感じている。
可憐で、清楚で、可愛らしく、その中にも毅然としたものを感じる女優さんで、
映画の中で初めて登場する場面(おそらくこの場面でジョージは恋に落ちるのだが)
彼女が振り返った瞬間に、私もジョージと一緒に恋に落ちた気分だった。
そして、回想シーンでの彼らの子役にも注目したい。
みんな実際の子供時代であったように、イメージがピッタリなのだ。

フランク・キャプラ監督の映画には常連が数多く出演している。
主役のジョージしかり、悪役のポター氏、叔父のビリー、薬屋のガウワー氏、
みなさん、どこかで見たことがある顔だ。他にも・・・・。
お~っといけない。キャプラ監督作品を語りだすと止まらなくなる。
熱く、長くなってしまうので、またの機会にしたいと思う。

映画の本筋に戻ろう。
「もしも自分がこの世界に存在しなかったら」
というファンタジーを体感したジョージは、自分の存在価値を実感する。
クラレンスが起こした奇跡から自分をもう一度見直すことができたのだ。
ジョージは神に、元の絶望の淵にいた自分に戻してほしいと願う。
そして元の世界に戻ったジョージは、はてさてどうなるのやら。
その後の展開からラストは、やはり皆さんの目で確かめてほしい。

人にはそれぞれの感性がある。
映画や音楽のうんちくを語るのは勝手だが、それを人に押し付けるのは
ナンセンスだと私は思う。
自分で好きなものを見て、聴いて、そして何を感じるかは自由だ。
だから自分の好きな映画を人に『見て』と強要するのは好きではない。
でも、あえて言いたい。
この『素晴らしき哉、人生』は是非見てほしい。

「人に押し付けるのは嫌い、ナンセンス」なんて言っておきながら、
このDVDも会社の上司に無理やり渡している私。
なんてこったい。

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2007年11月29日 (木)

『IN HER SHOES』

先日、映画「IN HER SHOES」を、やっと見ることができた。
時間をつくろうとは思ってはいるが、
リアルタイムで映画を見ることができないことが、少し辛い今日この頃ではある。

内容は、ビジュアルは良いが内面にコンプレックスをもつ定職に就けない妹と、
キャリアはあるが外見にコンプレックスをもつ恋に臆病な姉の物語だ。
ある事件がきかっけで、二人の心は大きくすれ違ってしまうが、
エンディングでは以前よりも心が結ばれ、
見終わった後に心地よい余韻が残った暖かい映画だった。

私の一番好きなシーンは、
実は難読症(読書障害)をもっている妹が、盲目の元教授と話をする場面だ。

「本を読んでくれないか。」
本を手に取り読もうとするが、彼女は上手く言葉を出すことができない。
諦めたように本を置いて出て行こうとしたとき、
「読書障害があるんだね。」と優しく彼女を諭し、もう一度本を手にとらせる元教授。
「でも、私、読むのが遅いから。」
「大丈夫、私は、聴くのが遅い。」

この言葉を聴いた時、身震いがした。
なんて素敵な言葉なんだろうか、と。

そして彼女は決意したように本を読み始めた。
始めはゆっくりと途切れ途切れに、そして一言一言をかみ締めるように。
全てを読み終えた安堵感でいっぱいの彼女に対して、元教授は優しく問いかける。
彼女も自分の考えや感じたことを、自分の言葉で話はじめる。
始めは上手く繋がらなかった会話が、
最後は明らかに、彼女の気持ちのこもった会話に変わっていった。
「A+(Aプラス)」と元教授はレポートの採点のように、最高の評価を彼女に伝える。
彼女は、大きくにこっと笑った。
私には、その笑顔は、今までにないような自信に満ちた笑顔に見えた。

大好きなシーンだ。
私もこんな風に何気なく人を包む言葉が言える人になりたい。

物語のエンディングで、彼女はあるサプライズを最愛の姉のために計画していた。
とても感動的だった。

さて、そのエンディングは、
みなさんに自分の目で確かめてほしい・・なあ。

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2007年11月 5日 (月)

オードリーの残した言葉

オードリー・ヘップバーンと言えば、言わずと知れた名女優だ。

ロングヘアーをばっさりと切った思い切ったショートカット、
フレアスカートのウエストをギュっと絞り、
ブラウス代わりに男物のワイシャツの袖をくるくるっと巻いたスタイル。
オードリー・ヘップバーンは「ローマの休日」で鮮烈なデビューを果たした。

それまで無名だった彼女を抜擢した監督は、
「この映画が完成したら、世界中が彼女に恋をするだろう」と言ったことは有名だ。
そして、本当にその言葉通り誰もが彼女に恋をした。

オードリー・ヘップバーンは映画で名声を手にしたのは言うまでもないが、
晩年はユニセフの親善大使として、世界中の国々を巡ったことも有名だ。

彼女の残した言葉がある。

 『魅力的な唇になるためには優しい言葉を紡ぐこと。

 愛らしい瞳になるためには人々の素晴らしさを見つけること。

 人は歳をとると自分に二つの手があることに気がつきます。

 一つの手は自分を助けるため、もう一つの手は他者を助けるために。』

なんて素敵な言葉だろう。
思わず涙が出た。
映画での名声とはまったく別の、自分の内から出てくる生きた言葉だと感じた。

私も自分の心の中から出てくる、本当の言葉をつかっていきたい。

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2007年10月25日 (木)

自分の声が好きになった理由②

大学生のときだ。

学校の近くに、とても感じのよい穏やかなご夫妻の営むレストランがあった。
こじんまりとした店内のカウンター席が気に入った私は頻繁に通うようになった。
値段が良心的なのはもちろんだが、なによりご夫妻の雰囲気がとても好きだった。
通い始めて数ヶ月経った頃から、少しずつ話をするようになり、
半年ほど経った時には、心地よい世間話が出来るようになった。
そんなときマスターが、こんなことを言ったのだった。

「前から思っていたんだけれど、あなたの声はとても素敵だね。
 あなたの声を聞いていると、ジーン・アーサーの顔が浮かんでくるんだよ。」

『えっ!私の声が素敵?ジーン・アーサーって誰?』

自分の声を初めて褒められた私はどうして良いかわからず、
ただ照れて笑っていたことだけを覚えている。
そしてその時初めて「ジーン・アーサー」という女優さんの名前を知った。

それからジーン・アーサーを調べてびっくりした。
ハスキーボイスがとても魅力的な、気品ある美しい人だったからだ。
彼女の出ている映画を片っ端から見たのだが、
見れば見るほど、マスターの言った言葉を思い出すと照れくさくなった。
だって、私なんかが足元にも及ばないようなものすごく素敵な女優さんで、
(確かに声は低音でハスキーですが)、
私の声を聞いていると彼女の顔が浮かぶなんて・・・・
ジン・アーサー本人、そしてファンの方に対して平謝りである。

でも正直、そのときの私は、ものすごく嬉しかった。
照れくさい気持ちより、嬉しい気持ちが勝っていた。
マスターの言ってくれた一言は、私に自信と勇気を運んでくれることとなった。

それから、かなり月日は流れたが、
今では、ちょっと変わった特徴のある自分の声が、けっこう好きだ。
そして人から言われた「言葉」が、大きなチカラを持つことも改めて感じている。
もしかすると私たちが何気なく言った一言が、
相手に対して大きな影響を与えているのかもしれない。

あれから私は、ジーン・アーサーの大ファンだ。
なんてったって私の声は、ジンー・アーサーを髣髴とさせるのだから。
「私=ジン・アーサー」だもの。
(ジン・アーサーさん、ごめんなさい。月日は、人をここまで図々しく変えるものです。)

しかし、いや待てよ。
あの時マスターは「思い浮かぶ」とは言ったが、「似ている」とは言っていなかったよな。
ということは・・・。ん~???
まっ、いいか。

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2007年10月24日 (水)

自分の声が好きになった理由①

もしかすると、誰にでもコンプレックスが1つはあるかもしれない。

私のコンプレックスのトップに、ずっと君臨していたのは『自分の声』だった。
子供の頃からハスキーで低音だった私の声。
「風邪ひいているの?大丈夫。」と言われることは、毎度のことだった。
男の子からは
「男みたいな声、変なの。」 「お前の声、ガラガラ」 なんてからかわれ、
(今だったら、100倍くらいにして言い返すことができるが)
当時、まだいたいけだった少女の私は、言い返すこともできずに我慢していた。

特に辛かったのは、音楽の時間の「独唱テスト」だ。
テストの日は朝から憂鬱で、いっそのこと学校を休んでしまいたかったが、
いつも元気な私にはそうもいかない。
授業中もずっとお腹が痛くなるし、何度、早引けしようと考えたことだろうか。

テストの曲は、いわゆる教科書に載っている曲だ。
(これが流行っていたポップスや演歌だったら違ったかもしれない。)
当然女子はソプラノのパートを歌わなくてはいけない。
(男子のパートでもよかったのなら、またまた違っていたかもしれない。)
とにかく私は高音のパートが歌えない。
というか、声が全く出ないのだ。
「自分の得意な歌だったらいいのに。なんで声の出ない歌を歌わなくちゃいけないの。」
と心の中で葛藤するが無駄。
決められた歌を歌うのが決まりだった。
自分では音痴でもリズム感がないとは思っていなかったが、

「声が出ない」=「歌が下手」=「私ってみっともない・恥ずかしい」
「声が高い女の子」=「かわいい」  「声が低い女の子」=「かわいくない」

という思いから、歌えないという恥ずかしさと悔しさ、自分に対する嫌悪感から、
涙がボロボロこぼれたことを覚えている。
とにかく自分の声が嫌いで嫌いで、
「何でこんな変な声に生まれてしまったのか。どうして私はかわいくないか。」
と、いつも思ったものである。

それから○十年経った現在、
私は、そんな『自分の声』を使った、講義という仕事をすることが多い。
不思議なことだ。

そして現在は、自分の声がそんなに嫌いではなくなった。

 <②へ続く>

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